クロミエのテンプル騎士団コマンドリー史跡

パリからの小旅【クロミエ】テンプル騎士団のコマンドリー跡を訪ねる

秋のパリは、 雨が降ったり止んだりの曇り空ばかり。

8月後半からずっとこんな天気なので、爽快な秋晴れとは縁遠く、気分が滅入る時期でもあります。

そんな天候にもめげず、10月も終わりのある日、パリから車で1時間半ほどにある街、クロミエ “coulommiers” に行ってきました。

そう、チーズで有名な街ですが、今回の目的はそれではありません。

この街には、テンプル騎士団のコマンドリー(基地)の史跡があるのです。

ということで今日は、テンプル騎士団の話を少しと、その小旅の記録です。

テンプル騎士団のコマンドリー跡を訪ねる。

クロミエのテンプル騎士団コマンドリー史跡

まずはテンプル騎士団について少し。

テンプル騎士団はキリスト教の修道士たちですが、同時に戦士でもありました。

団は180年間ほどヨーロッパ各地で活動し、設立当初9人だったメンバーも、最後には会員2万人近くまでに発展。彼らが生活の拠点としたコマンドリーも、フランスだけで900カ所ほどあったといいます。

彼らの残した業績や辿った運命は語るところが多く、その後の歴史に大きく名を残すことになります。

 

テンプル騎士団が結成されたのは1119年。十字軍の遠征のあと、イスラムから奪還したエルサレムの護衛という目的で結成されました。

そして彼らは、エルサレムへ向かう巡礼者たちを守る仕事、特に彼らのお財布を守ることを仕事にし始めます。

長い旅路を大金を持って進むのは危険なため、巡礼者たちが現金を持たずに旅ができ、かつ旅先でもお金をおろせるよう、小切手のようなシステムを考案したのです。

こうした金融活動の枠が広がるにつれ、騎士団は経済的に大きく成長し、当時の王フィリップ4世にお金を貸すようになります。

しかし、慢性的な財政難にあった王は、借金を踏み倒す目的もあって、ついにはテンプル騎士団の財産を没収してやろうと策略しはじめました。

王は教皇クレメンス5世を活用し、騎士団にあらゆる異端の罪をでっち上げ、1307年10月13日の金曜日に団員を一斉逮捕し、無理やり異端審問にかけてしまいます。

そして1314年、総長ジャック・ド・モレーら高官が、パリのシテ島で火刑に処せられます。

その処刑の際にド・モレーは、フィリップ4世とそのカペー家、教皇クレメンス5世を呪ったとされ、なんとその後、王も教皇も年内に急死、カペー家にも不幸が続いて家系は断絶してしまうのです。

クロミエのテンプル騎士団コマンドリー史跡

写真↑クロミエの高台にあるコマンドリー。1173年に建てられ、テンプル騎士団のあと、1312年からは聖ヨハネ騎士団が使い、仏革命後は国営地となり農場として使用。12世紀に建設されてから20世紀中頃まで、ずっと人が入居してきたため、他所のコマンドリー史跡に比べて状態がとても良い。左の赤煉瓦3階建が「騎士司令官コマンダーの館」。その右手に「礼拝堂」。円錐屋根の塔が「鳩舎」。礼拝堂と鳩舎の間が「集会室」で12世紀に建てられた最も古い部分。

【クロミエ】テンプル騎士団コマンドリー跡の礼拝堂

写真↑1205年に建てられた礼拝堂サント・アンヌ。仏革命時に、鐘や窓グラスや什器類が散々に荒らされた末、20世紀中頃まで礼拝堂は干草の倉庫として使われました。今ではボランティアらの手によって、常にメンテナンス整備されています。

テンプル騎士団時代のシャペル内壁画

↑13世紀テンプル騎士団時代に、石灰と黄土で描かれた壁画。モチーフは、左は「聖ゲオルギウスとドラゴン」、右が「受胎告知」。

鳩舎

↑鳩舎は1640年頃のものとみられ、当時では裕福さの象徴でもありました。

↑カーヴ(地下室)に降りる階段。扉の十字はどちらかと言うと、聖ヨハネ騎士団の十字っぽいですね。近年、地下室奥に別の通路が埋もれているのが発見されました。その先には何があるのか、、、夢が膨らみます。

テンプル騎士団の歩んだ悲劇的な歴史や、彼らが築いた莫大な資産から、とにかく団にまつわる伝説や逸話は絶えません。現在でもテンプル騎士団の生き残りがひっそり活動しているとか、フリーメーソンとして残っているとか、どこぞに財宝が隠されているとか、何とか。

今回の旅、なんでこの時期に、テンプル騎士団の史跡を訪ねたいと急に思ったのだろう、と不思議だったのですが。。。そう言えば、今年の1013日は金曜日だったんですね。

クロミエのテンプル騎士団コマンドリー史跡
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