先日、友人と話をしていて、ふと昔の自分の出来事を思い出しました。
それはある日、自分が「正論」に囚われていると気づいた時のこと。
「君はいつも正しい」の真意に気づく。
思えば、正論と命令形が普通の環境で育ったのもあってか、大きくなると、私の思考も自然とそうなっていました。
社会人になり、「正論を振りかざす人は嫌われる」と聞いたことはあっても、自分のそれとは深く考えたこともありません。正しくロジックであることが大切で、それが良い事だと信じているのです。
評価も助言も分析も、筋が通って収まるよう、正論メガネを通して処理してしまいます。それがロジハラや上から目線になりがちという認識もないので、話す相手が誰かも関係ありません。悪意はなく、こう処理した方が効率よく、かつ円滑に物事が運ぶと単純に信じているのです。
当然ながら、家では彼とよくぶつかりました。そして、いつもこの言葉で締められるのです。
「君はいつも正しいよ。だから君とは話し合いなんて出来ない。」
正しいと思うのなら、これ以上どう話し合うのか?
ひねくれでなく、彼の言う事が普通に理解できないのです。しかし、本来おだやかで辛抱強い彼が、こうした言葉を頻回に吐露するようになり、やっと私は「どこかおかしい…」と自問し始めます。必死で自分をスキャンし、根本的な問題に気づきます。
長く信じていたことが崩れはじめ、どうにもこうにも心許なくなって、例の友人ソニアに手伝ってもらい、私はついに正論メガネを外しました。
正論メガネを外して物事を見てみる。
5人いたら5通りの見方があっておかしくないし、それで当たり前。みんながみんな、自分が正しい!と主張してたら、物事は前に進みません。人には「心」という複雑なものがあるので、白か黒かだけで判断しようとせず、微妙なグレーにした方が、皆がそれなりに納得できて上手く収まることもあるのです。その辺をきっちり消化できていないと、「私は正しい事言ってんのに何が悪いんだー!」の発想になるんですね。
正論が悪いわけではなく、要は使い方。意図的であろうが無意識であろうが、相手のぐうの音もやりこめるような使い方をするのは、相手にはもちろん、自分にも優しくない。相手の心情を考慮しつつ正論を持ち出すことのできる人は、心に余裕があって、器の大きい大人だと感じます。
正論ハラスメントとはよく耳にしてたけど、真意を理解するのに長い時間を要しました。正論メガネを外してからは、物事がよく見えるようになり、身の回りが円滑に進みやすくなりました。そして何より、自分が楽。「自分は正しい」の言葉にどこか不具合を感じてる人は、すこしメガネを外してみると、思わぬ発見や変化があるかもしれません。
ここで少し紹介します。このブログにときどき登場し、私が心の栄養士として信頼している「ソニア」は、心理のプロでもスピリチュアル系女子でもなく、全く別の分野で活躍する女性です。彼女は考え方が非常に柔軟でポジティブ。直球を投げてくる強い一面もありますが、人に対して説教や助言に講じるでもなく、批判も迎合もしません。相手が自然と力づくような、すっと納得できる表現をしてきます。彼女と30分ほど話をするだけで頭がスッキリ。自分と同い年だとは思えないくらい、彼女から学ぶことは多くあります。よくよく考えると、彼女は正論メガネをかけていません。
疲れた心に正論は不要です。そういう懐の深い対応が自然とできる大人になりたいものです。