「しあわせである」とはどういうことか。
その定義は色々です。
主観的なことなのでコレが正解というものはなく、みんなそれぞれの「しあわせ」の考え方を持っています。
今回は私が思う「しあわせ」について述べてみます。
Table des matière
「しあわせ」て何だ?
「しあわせ」について考えるとき 、なぜか「宇宙の存在」について考えている時と同じ感覚になります。
答えがありそうで確実なものが見つからず、自分が納得いく形で答えを追う。
結局いつも行き着くのは、「しあわせである」とは「自分を愛している」ということ。
これに尽きると、私は思います。
この「自分を愛している」ことは、誰かから特別に教わることではなくて、(逆にそれを妨げるコトを学んでしまってる場合が多いと思う) のちのち自分で意識的に学んでいくことです。
もちろん育った環境によっては、子供が自然と言葉を話せるようになるように、自然と「自分が好き」を習得できて大人になってるラッキーな人もいると思います。でもそんな人も、大人になってから社会のストレスで、自分を再構築する必要があると感じる時期があるかもしれません。
「しあわせである」ことは、何歳からでも習得できます。
では「しあわせであることを学ぶ」とは?
しあわせを学ぶのは「嬉しい事ばかりが起こる方法を学ぶ」ことではありません。
「物事がバラ色に見える方法を学ぶ」でも「すべてを受け入れ、許せる人になる方法を学ぶ」でもないです。
しあわせを学ぶのはサーフィンのように、「山あり谷あり、波の力を上手く使って、前進していくテクニックを身につける」こと、だと思います。
苦しいときも、喜んでいるときも、それをうまく受け入れて利用することができるということ。
とくに、苦しいときを受け入れることが難しく、モノゴトを別の視点で見る (分析する) テクニックが必要です。
「しあわせだなあ!と言えるようになりたい」と思ったらすること
とにかく「しあわせを感じてやる!」と決心をする。
「しあわせになりたい…」ではなくて、「しあわせを感じてやる!」と決心すること。
これ、けっこう大切なんですね。
しあわせは待っていても降ってこなくて、自分で行動にうつさないと得られないもの。
今の自分を何とかしたい!と思うと、「今のままで十分ここち良いじゃないかぁ、このままじっとしてようよぉ」というイジワルなワタシが絶対に出てきます。コレが自分をくるしめてる張本人。
「しあわせになる」と決心するのは、その負の感情に主導権をにぎられるのと、オサラバする決心をすることです。
でも、そう思うとなんだかうれしくないですか😙?大切なのは、しあわせになるための調査を始め、自分なりに行動して答えを見つけていくスタートを切ることです。
まずは、自分のメンテナンスを優先する。
いま自分が「しあわせである」のも「しあわせでない」のも、他人に責任はありません。
「しあわせである」は他人にしてあげれるコトでも、他人がしてくれるコトでもないです。
「あの人がしあわせをくれた」というのは、自分にそれを受けとる余裕ができていたからの結果。
ガチガチに思考を閉ざしていたのでは受け取れないどころか、その存在にさえ気づきません。
自分が知らない形態のものを、他人にあげることも受け取ることもできないからです。
「自分を好きになる」ことができ始めて、はじめて「他人を愛す」ことができます。
「しあわせ」はまわりに伝染します。
あげようとしなくてもあげられるので、自分を好きになると自己中になるんじゃ…という心配は無用。
まずは、自分が見失っている「私」をとりもどすために、自分の世話をしてあげるのが最優先です。
自分で自分から逃げないで、「自分はどうありたいのか」素の自分の声に耳をかたむけながら、自分自身を正面から見ることを心がけてみます。
ある時ふと、「わたし今まで、自分を他人事みたいに扱ってたんだな…」とわかる瞬間がきます。
思考スタイルをかえる。
生産的なことを自問するクセをつけます。
何かあったらすぐに、「何で私はこうなんだろ」「なんであんな辛い子供時代だったのか」「何で私はいつもイヤな目にあうんだろ」という、答えのない嘆きグセを変えます。
これを「生産的な質問をする」クセにかえていきます。
「今、どうしたら気分が穏やかになるかな」「今、自分がしあわせになるには何が必要かな」「しあわせだと感じられないのは、自分の中の何がジャマしてんだろ」など、いろいろ分析してみます。
これはすぐに答えがでるわけでなく時間を要しますが、あせらずにゆっくりと。
これはあとあと、苦しい事に対して、目をつむるではなく、かみ砕いて消化する (現実を直視する) 大きな手助けになります。
「人生は経験のつみ重ね」
私の周りに数名、山あり谷ありの人生を通ってきて「自分はしあわせか?を自問したことがない」という超人 (?) が数名います。
それじゃ、彼らは自分の「しあわせ論」は持ってないのか?といったらそうではなく、聞かれたら迷わずコトバで表現できます。
彼らが口を揃えて言うしあわせは「自分がしてきた経験」。
この返答には、平手打ちくらったみたいに目がさめました。
彼らが今まで自問してこなかったのは、いろんな苦い体験をしても「人生は経験」として消化できてたってこと。
それに気づいてからは、数十年も前の子供時代のコトを思い出すたびに苦しかったのが、いまでは思い出しても「そんなときもあったな」とムフッと笑えるようになりました。
出来事は忘れるわけではないです。今でもあのころの苦味は心身が覚えてます。
でも自分なりにいつも「しあわせ」をさがしていると、「自分の負の思考スタイルにしがみついて苦しんでいても意味がない、今の自分を磨いてやるほうが楽しい」と思えるようになります。
他人に対する過剰な罪悪感や羞恥心も同じ。それがいかに自分自身をブロックしていたかが見えてきます。
まずは、イジワルな負の言葉ばっかりささやく「ワタシ」から、本当の自分を解放してやること。
そのためには「自分はどうありたいのか」素のあったかい自分の声に耳をかたむけながら、「しあわせになる決心をする」ことがしあわせになる第一歩です。